中 絶 体 験 談 |
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2002年10月2日 生理が遅れてから毎週妊娠検査していたけど、今日はなんだかちょっと吐き気がする。 さて、今日もやってみるかね・・・っとあらら?なんかうすーくラインが入っているけど・・ どうなんだろう?気を取り直して近所の薬局でちょっと高めの検査薬を購入してもう一度検査すると、今度は5秒で陽性が! おおーーっと夫と大喜びする。 2002年11月13日 シャワーを浴びる度に悪阻で吐くので、入浴が2,3日に1回に減る。 スーパーへの買い物以外、寝たきりの生活になる。スーパーから帰ってくる度に吐くようになる。 2002年11月20日 初の超音波検診。モニターに映った瞬間、人の形の物体が!おおお!これが赤ちゃんか!と感動。 日本に送るから、と言い訳しながら沢山写真をもらう。結果は、心臓はちゃんと動いているし、大丈夫、と太鼓判。 しかし、子供が標準より小さいといわれ、予定日が6月7日に変更。 その夜、旦那ははしゃぎながら友人親戚に電話しまくって、パパになるんだ!と有頂天。よかったね。 2002年12月27日 検診。なかなか聞けなかったけれど、心音をやっと確認。 2003年1月4日 初めて、しっかりとした胎動を感じる。旦那おおはしゃぎ。よかったね。 2003年1月15日 第2回目の超音波検査。これで問題がなければ最後の超音波検査。やっぱり日本と違って 何回もとってくれないなあ、と少し残念。赤ちゃんはますます人間らしくなっていて、すばしっこく動いているのを確認。 医師が心臓の写真を取ろうとしたが、鼓動が早くてなかなかうまくとれない・・・とのこと。 悪阻も湿疹も便秘もなくなり、体調は絶好調になる。 2003年1月20日 体調が良いので1月から学校に通い始めるが、凍った斜面で滑って転倒。 お腹に軽く衝撃を感じたので、学校を早退して病院の救急窓口へ。 転んでも赤ちゃんには影響がでないように、お母さんのお腹はなっているんですよ、と言われ、大丈夫とのこと。 ついでに15日検査をうけたドクターから心臓の写真がやっぱり良く撮れなかったので 後日もう一度取り直しに来て欲しい、と言われていた為、無理やりお願いして別のドクターに撮り直してもらう。 すると、数枚写真を撮った後、どこかへ行く。お腹をさらしたままそのまま待っていると、15日の時のドクターがくる。 2人のドクターでなにやら真剣に話をしているのを見て、やや不安になる。私はこの国の言葉はわからないので 旦那に聞くと、心臓の何かが良く見えない・・と言っているけど大丈夫だよ、というが、旦那も不安げ。 其の後、2人のドクターがどこかへ出て行き、またもや待たされる。すると今度は地位が高そうなドクターがやって来て 再び超音波で確認・・・。その後、別のフロアーに回されて、しばし待たされる。そして、個室でまた別の医師と面談。 旦那と医師が話すうちに、だんだん旦那の顔がこわばり、紅潮していったのがわかった。 その場で、大学病院に転院する手続きがとられ、そこで精密検査をうける手はずがとられた。 部屋をでるときに旦那の顔をみた。旦那の顔をみて、子供に障害があるんだな、と悟る。 2003年1月22日 この国では一番といわれる大学病院へ行く。なんでも小児心臓外科の権威がいるということで、 すでに出産後の打ち合わせ?と内心とまどう。だってまだ病気って決まったわけじゃないのに・・・。 エコーは通常のものと違った。画面にグラフやら画像のリプレイが一瞬で表示されていく。 どうやらこれが胎児心エコーというやつか?赤ちゃんは私の不安を感じ取ってか、殆ど動いてくれない。 元気がなさそうだ。診察してくれた初老の女医から、最初、部屋は4つあるわよ、ときいて、一安心。 旦那の顔にも明るさがでる。しかし其の後、ぺらぺらとどうでもいい話をしまくる旦那をよそに、 医師の口数が少なくなり、其のうち、何度も何度も血流の流れのグラフを繰り返してみているのが分かった。 そして30分に及ぶエコーの後、医師の口からでた話は手術の話だった。 話を聞くと、いかにも簡単そうに聞えるけれど、やっぱり冷静に考えると心臓にメスを3回いれて 血管をつなぎかえて〜なんて普通じゃない。そんなに人間の体が簡単にできているとは思えない。 それに左心室が小さすぎるということだけれど、左心室が最も重要であることは誰もが知るところだ。 旦那にも簡単そうに聞こえているらしく、がぜん乗り気だ。一通り説明が終わったところで、私は聞いた。 「今後少しでも良くなることはあるのですか?」医師の答えはノー。頭を思い切り殴られたような気がした。 最後に医師に生むかどうかを聞かれた。その場の雰囲気でなんとなくイエスと答えてしまったが、頭の中は真っ白だった。 帰りがけに病院から素人でも理解しやすい医学書と資料が貸し出された。 きっとよく事態がつかめていないんだろう、との病院の配慮だった。 帰宅し、資料をよみ、段々驚きと戸惑いで動揺し始める夫をよそに、私はネットで情報を集めまくった。 少しでもポジティブな情報があれば、と藁をもつかむ思いで探しまくった。 しかし探せば探すほど重篤、短命、極めてまれ、などの言葉しか見当たらなかった。 2003年1月24日 ・・・私達はラッキーだったのだろうか? この心臓病は通常、出世後に発見されることが多いという。 もし最初の病院の医師が心臓の写真に興味を示さなかったならば、もしかしたら見落とされていたのだ。 しかし・・正直、見つけて欲しくなかった、そんな気持ち。 夫は一貫して前向きな姿勢だった。すでに子供に愛情があるのだから今更あきらめられない、という。 私はわからない、と答えるのが精一杯だった。 再び病院へ行く。行ったフロアーは病院でも最上階の方で、入院患者や看護婦の姿が見えず、しーん、としていた。 どうやら遺伝子関係のセクションらしい。ベビー雑誌が1冊だけポツーンとテーブルにおいてあった。 そして気になったのは、あらゆるところに鼻紙がおいてあったことだ。 産婦人科に遺伝子専門医、そして鼻紙とくればどういう人が来るのか明らかだ。 離れたところに女性が一人待っていた。ほどなくしてその女性が部屋によばれ、入っていった。 私達も名前をよばれ、別の個室へと移動した。 部屋には丸テーブルが置いてあった。当然、テーブルには鼻紙が山積みになっている。 話の内容は、改めて病名と症状の告知と、治療方法、考えられる原因や生存率など、極めてリアルな話だった。 その上で、羊水検査を行うか、産むかどうするかの決断を迫られた。 私は主人と2人で話をさせてください、といい、他の部屋を借りて話し合いを行うことにした。 移動の合間に、先の一人で来ていた女性がでてきた。嗚咽をあげながら去っていく彼女をみて 一人で辛かっただろうに・・・と気の毒に思うと同時に、なんで同じ妊婦でも、こんなに明暗がわかれるんだろうか、と涙がこみ上げる。 自分の子供は特にかわいい。抱っこしてあげたい。できるかぎり一緒にいたい、たとえ数週間であっても・・。 そしてできれば医学の奇跡を期待したい・・。 でも、その気持ちを抑えなければいけないほどの苦痛をこの子が出生後体験するであろうことは 容易に想像できるし、小さい子ならなおさら、苦痛なく、最後を迎えさせてあげたい・・。 親らしいことを何もしてあげられない、私ができる最初で最後の決断だった。そして旦那は涙声になりながら医師に告げた。 「中絶を希望します。早い時期に、そして子供に痛みを与えない処置をお願いいたします。」 医師は「この病気はね、本当に厳しいのよ。」と涙を浮かべながら中絶同意書を差し出した。 そしてこの日から最後の日までの6日間、旦那は会社を休み、私は自分のお腹の写真をとりはじめた。 2003年1月29日 翌日の処置の説明。膣を柔らかくする薬を飲む。看護婦にうながされても、薬を飲むのを躊躇してしまう。 散々泣きはらした後、やっと薬を飲みきる。もう、後戻りはできない。 2003年1月30日 早朝から病院にはいり、陣痛促進剤を入れる。陣痛だけでなく 一緒に入れられる酢酸が膣に染みて、かなりの激痛。初産で中期のため、なかなか子宮口が広がらない、と、 どんどん促進剤をいれられる。体が痙攣し始め、錠剤、座薬、注射、と次々麻酔を打ってもらうが、全く効かない。 嘔吐を繰り返す。とにかく、赤ちゃんが苦しくないようにしてください、と看護婦にお願いしながらも自分は痛みで悶絶する。 3回目の促進剤をいれた後、今まで元気に動いていた赤ちゃんの動きが変わった。 まるでお腹の中で宇宙遊泳をしているような動き。麻酔の打ちすぎで感覚がなくなったか、事切れてしまったんだな、と悟る。 旦那にそのことを告げた後、いよいよ痙攣がとまらなくなり、意識が混濁し始める。 陣痛が始まって何時間経っただろうか。気づいたら脊髄麻酔を打たれていた。医師が来て、 4センチしか開いてないけど、といいながら破水させた。そして、悲しい処置だから、これを吸ってね、といわれ 笑気ガスのマスクを渡される。これを吸った後、気分が楽になり、中絶のはずなのに、赤ちゃんにあえるんだ! と幸せな気分になり、一人で冗談などを飛ばして笑ったりしていた。 破水後、小さな赤ちゃんはすぐに下がってきた。いきみ始めて30分もしないうちに、 ずるっとした感覚とともに、何かがでてきた。赤ちゃんだ・・・・でも産声はない。 しーん、とした分娩室の中、黙々と赤ちゃんを拭きながら私を気遣う助産婦。生きてますか? と聞くと、すでに死んでるわ、とのこと。赤ちゃん見る?と聞かれ、迷ってます、と答えると、 じゃあ見たほうがいいわ、とトレーに乗せた赤ん坊をハイ、と手渡された。 それは・・・体はとても小さいけれど、完璧な赤ちゃんだった。言われなければ病気だなんてわからない程。 かわいい・・そして顔が私にそっくり・・口が苦しそうに開いていた。苦しかったんだね、きっと。ごめんね。 本当にごめんなさい。ママはあなたを殺しました。 分娩後、子宮の戻りも早いのもあり、4時間ばかり休んで、その後、退院した。 ここにはこれ以上いたくない、そんな気分で一杯だった。 性別:男 身長:25cm 体重:370g 週数:21週5日 −全て終わって− 普段から、中絶なんてとんでもないことだ、と他人事のように思っていましたが、 まさか自分が中絶という選択をすることになるとは思ってもいませんでした。 たとえそれが止むを得ない理由であっても、望んだ妊娠だったのであっても、中絶という種の選択、 つまり人殺しをしたという事実には変わりないのです。 さまざまな個人的事情があって中絶という選択をするのはとても辛いことです。 本人が散々苦しんだ末の決断ですから、中絶を全面的に反対するという意見には賛成できません。 しかし、中絶の母体へのダメージが大きいということは確かですし、それが中期中絶であれば、 精神的ダメージはより一層深いものに、そして一生ついてまわるでしょう。 この体験談を通じて、一人でも多くの方が、中絶をする女性の悲しさ、空しさを理解して頂けたらいいな、と思います。 今はただ静かに、医学のより一層の進歩と、一人でも悲しい思いをする女性が減ることを祈る毎日です。 |